私がいつも読んでいる。wisdomニュースからの抜粋です。
何回かに分けて掲載させてもらいます
改革開放という30年の「どさくさ」
ご存じのように、アップルの「iPhone」や「iPad」の生産は、ほぼ全量が中国で行われている。
アップルがこれらの製品を生産委託している富士康科技集団(フォックスコン・テクノロジー・グループ)の工場には全国各地から集まった100万人単位の若い従業員が働いている。
フォックスコンの工場の生産基地としての「優秀さ」は折り紙付きだ。
アップルにとっては本来、生産地をひとつの国に集中するのはリスクが高いはずだが、
なぜそうなっているのか。それは簡単に言えば、アップルの、このような高品質の製品を、
こんな価格で、これだけの量を、こんな速さで、しかも需要の変動に応じて柔軟に生産できる場所は、
中国以外、どこにもないからである。
近年、フォックスコンの工場で従業員の自殺が相次いだり、工場で爆発が発生したりするなど、
労働条件が劣悪だとの批判が上がっているニュースをご存じの方も多いと思う。報道によれば、
国際的な労働条件の監視団体などから「アップルの製品は中国労働者の犠牲の下に生産されている」などと指摘されたことを受け、アップルとフォックスコンは数万人の従業員を追加して新たに雇用し、不法な残業をなくすほか、安全手順の改善や従業員の住宅などの施策を講じるという。
こうした動きの背景には、労働者の待遇を改善し、賃金を上げたい中国政府の思惑がある。
コストアップは相当大きいはずだし、労働条件の改善は、商品としての労働力の「柔軟性」を削ぐことになる。
今後、ますますこの動きは加速するだろう。だが、アップルはそれを呑むしかない。
それは、他に造れるところはないからである。
このアップルにまつわる一連の動きを見ていて強く感じるのは、
改革開放という30年間の「どさくさ」が本当に終わったということである。
改革開放の30年間は、中国にとっては社会主義革命→文革という混乱後の「どさくさ」で、
極めて「異常な」時代だった。日本の戦後の闇市時代みたいなものである。
グローバル企業は、その「どさくさ」に乗じて大儲けした。
アップルはそのひとつの例にすぎない。
だが、その「どさくさ」の時代は終わろうとしている。
私たちは「どさくさ」の中国を、本来の中国であるように見てしまいがちだ。
30年という時間は個人にとっては長い時間だが、歴史的にみればわずかなものである。
しかし、私たちが見てきたこの30年間の中国は、あくまで「異常な」時代だった。
中国という国と向き合うには、そういう認識が必要だと思う。
歴史的な視点で中国を見直す
最近、中国が経済的にも政治的にも台頭するにつれて、
中国という存在を歴史的な長い視点でとらえなおそうという動きが目立ってきている。
例えば、昨年11月に出版された
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(與那覇 潤著、文藝春秋)という本がある。
論旨は私の理解では以下のようなことだと思う。
一般的な世界史は西洋諸国中心に理解されているが、
中国では1000年も前の宋の時代(10~13世紀)に産業革命に類似した状況がすでにあった。
そこでは全国単位の人口流動が発生し、さまざまな民族が交錯し、
貴族とか農奴とかいった身分制度も薄れて、中華という大きな傘の下に一種の開明性とか
普遍性を持つ文明が成立していた
しかし、明代の後半から清にかけては漢民族中心の内向きの閉鎖的な時代に入り、低迷する。
そこで「敵失」に乗じて世界を支配したのが西洋諸国である。
しかし、20世紀終盤に始まった中国の改革・開放によって世界は新たなグローバル化の時代に入った。
これを筆者は(普遍性を持った高度な市場経済の元祖は中国であるといった観点から)「中国化」と表現する。
これはもちろん「中華人民共和国という国が世界を支配する」というような話ではなく、
宋代の中国が実現していたような大移動、大交易を基盤にした大きな枠組みの市場経済の時代が再来しつつあるという意味である。
さらに言えば、そういう大きな枠組みで大流動する時代に、一民族を単位にした「江戸時代的な小さな平和」を求めても無駄だ、ということが筆者のメッセージであると私は理解している。
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